Warning: reset() expects parameter 1 to be array, null given in /home/users/0/lolipop.jp-dp19151043/web/column/detail.php on line 57

Warning: Variable passed to each() is not an array or object in /home/users/0/lolipop.jp-dp19151043/web/column/detail.php on line 58
くま格闘技観戦の歴史(総合格闘技以前〜) - 「くまページ 総合格闘技の歴史」出張版 - 格信犯ウェブ

Weekly Column

Home > Column | Weekly Column > 「くまページ 総合格闘技の歴史」出張版

「くまページ 総合格闘技の歴史」出張版

くま格闘技観戦の歴史(総合格闘技以前〜)

Guest
2004.11.19
くま 33歳 くまページ管理人
ただ試合結果のみを掲載するサイトとの差別化から、試合の内容や選手のプロフィールを掲載した資料性あるサイトを目指してデータを蓄積するというのが「くまページ」のコンセプトです。日本人の参戦した試合をベースにしたデータベースの構築を目指しており、また調査の際に集めた資料を元に「くまページBLOG」ではニッチな情報を発信したいと考えています。
 私は元々自分で空手をやっていたこともあり、昔から格闘技には興味がありました。もちろんプロレスはテレビで放送していましたので見ていましたが、やはり興味としては空手やボクシングといった競技的な物の方に比重が置かれていました。実際、高校の頃から「フルコンタクト空手」が愛読雑誌でしたし、夜中の時間をもてあましていた私は放送しているボクシング中継をほぼ余さず観戦するようになりました。今回は、私の格闘技観戦の歴史について、総合格闘技に至るまでを、ポイントの試合を中心にご紹介したいと思います。
 私が一番良くボクシングの試合を見ていた90年頃といえば、日本では鬼塚勝也、ピューマ渡久地、川島郭志、そして辰吉丈一郎といった豪華メンバーがまだ日本ランカーレベルで凌ぎを削っていた時代です。また旧ソ連から輸入ボクサーがデビューして、勇利アルバチャコフが圧倒的な強さを見せていました。この頃の日本のボクシングは、本当に面白かったです。もちろんゴールデンに放送される世界戦の中継も見ていましたが、ここでは当時からニッチなことが好きだった私の印象に残っている試合をいくつか時系列で紹介したいと思います。
■日本フェザー級タイトルマッチ(90年11月16日・後楽園ホール)
 ○園寿和(京都拳闘会・挑戦者)
 ●淺川誠二(神戸・王者)
  4R KO ※園が第40代フェザー級王者に。
 淺川誠二選手はSバンタムの日本王座を5度防衛中の安定した王者で、この試合の後世界挑戦をする計画という、当時の日本でもトップクラスの選手でした。対する園選手、87年に相手が次々と棄権する中、2勝でSバンタム級西日本新人王を獲得した選手です。このタイトルマッチのオファーがあった時には日本6位だったのですが、タイトルマッチ前の試合で負けてしまい、挑戦時には日本10位というランキングでした。園選手の実家は京都の地図屋で、家庭の事情からこの試合を最後に家業を継ぐことが決まっていました。正直、淺川選手の世界前哨戦の為のかませ犬として選ればれたという訳です。
 当然関係者はもちろん、淺川選手も、そして当の園選手さえも淺川選手が勝つと思っていました。園選手も「ボクシング人生の最後に淺川さんのような選手と戦えて光栄です。」などとコメントをしており、試合前の控え室では仲間とレポート用紙に「もう減量なんかせえへんどー。ボクサーから相撲取りへデューダだ〜。」という落書きと一緒にボクシング引退後に食べる食べ物のリストを作っているといったリラックスぶりでした。
 コールされて入場する両選手。園選手は試合のトランクスのみで質素に入場。対する淺川選手はラメ入りの銀のガウンで登場です。ガウンを脱ぐと、淺川選手の靴とトランクスも銀のラメ入りで、フリンジがビラビラとあしらわれていました。
 試合は1Rから淺川のペースで進み、園は防戦一方といった試合内容でした。正直力の差は明白で、園がいつ倒されてしまうのだろう、といった試合内容で3Rが終了しました。そして4R、淺川が園に圧力を掛けてロープ際まで追い詰めたその時、園の放ったフックがきれいに淺川の顎にヒットしました。返しのフックを当てると淺川はペタンとマットに座り込みダウン。レフェリーがカウントを始めます。意識ははっきりとしているものの、びっくりしている淺川、そして園は「なんで?」といった表情で呆然と立っています。レフェリーのカウントに合わせて「うん、うん」とうなずく浅川。しかし顎を打たれて脳を揺らされた為、立ち上がることが出来ずはっきりした意識の中でカウントアウトにより浅川のKO負けとなります。
 本人も含めて誰もが思っていなかったタイトル奪取。チャンピオンベルトと認定書を受け取り、アナウンサーがリング上でインタビューをします。
アナ:「KO勝利おめでとうございます。(観客の『世界〜』という野次が聞こえる)
    会場からは『世界』といった声も聞こえますが。」
園 :「いえいえ。僕の力は僕が一番分かっていますから。この試合で引退します。」
解説席の浜田剛史さんが「私も長年ボクシングを見てきましたが、こんなケースは初めてです。」などとコメントしていました。
 この試合の敗戦で、浅川選手の世界挑戦は2年ほど遠回りをすることとなります。浅川選手は本当に納得がいっていない様子で、後のインタビューでも「引退したなら、ストリートファイトでもいいから再戦したい。」とコメントしていました。
 10戦6勝(2KO)4敗(1KO)という戦績ながら、西日本新人王と日本王座をタイミングよく取った園選手。実力を持ちながらラッキーパンチで敗れて遠回りをし、世界挑戦のタイミングを外してしまった浅川選手。結局浅川選手は東洋フェザー級タイトルは獲得するものの、脂の乗り切った時期を逃して世界には手が届きませんでした。しかも、浅川選手は引退後の01年7月に、湖で溺れて帰らぬ人となってしまいました。
 この試合は、試合自体もまるで作ったような展開で印象的でしたが、その後の人生までをも象徴しているようで、忘れられない試合でした。
■WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ(90年6月30日・タイ チェンマイ)
 ●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
 ○カオサイ・ギャラクシー(タイ)
  8R TKO(レフェリーストップ)
■日本J・バンタム級タイトルマッチ(90年10月15日)
 ●中島俊一(王者・ヨネクラ)
 ○鬼塚勝也(挑戦者・協栄)
  10R 2分42秒 TKO(セコンドのタオル投入)
■日本J・バンタム級タイトルマッチ(91年3月18日)
 ●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
 ○鬼塚勝也(王者・協栄)
  10R 判定
 90年頃、中島俊一という日本王者のボクサーがいました。高校時代には演劇部に所属していたという経歴で、明治大学でボクシングを始めて卒業後にプロになった選手です。88年に日本J・バンタム級王者となり6度防衛しているというなかなかの選手ですが、見た目はあまり強そうではありませんでした。そしてなんと言っても一番の特徴は、その驚異的な打たれ強さでした。
 90年6月に世界挑戦のチャンスを得た日本王者の中島選手。王者のカオサイはそれまでタイトルを13度防衛しておりタイの英雄として名高く強い王者でした。この王者相手に、中島選手は果敢に戦いました。結果は8RKO負けでしたが、この試合で中島は1回のダウンはおろか、後退すらせずに終始前に出続けたのです。王者のカオサイはアウトボクシングで中島をめった打ちにするものの退かず倒れない中島を見て「レフェリーはどうして止めないんだ!」といったアピールをする状態でした。
 そんな中島選手が再び世界に挑戦する為に、日本に戻って90年10月にタイトルマッチを行うことになりました。相手は13戦13勝12KO無敗という脅威の戦績を誇るホープ・鬼塚選手です。アマチュアのエリートだった鬼塚はすでに高い人気を誇っており、セコンドにはタレントの片岡鶴太郎。切れるパンチでKOの山を築き、国内無敵の存在でした。
 鬼塚に対して王者の誇りを持つ中島は若い鬼塚のパンチを浴びて顔を腫らしながらも怯まず、堂々とい打ち合いを挑みます。そして最終10R、鬼塚の猛打が中島に襲い掛かります。中島は打たれ続けて血だるまの状態となるもやはり後ろには引かず、鬼塚に反撃のパンチを繰り出します。顔は腫れあがりふらふらになりながらも決してダウンをしない王者を見かねたセコンドがタオルを投入し、TKO負けとなりました。しかし、負けたとはいえスター鬼塚を相手に王者の誇りを見せた中島は、私に深い印象を与えたのです。
 そして91年3月に、鬼塚選手の2度目の日本タイトル防衛戦で再度両者が激突します。中島選手は、まだまだ世界最挑戦をあきらめてはいませんでした。挑戦者となった中島は、鬼塚に対して果敢に打ち合いを挑むも王者となった鬼塚のパンチは精度を誇り、次々と中島の顔面を捉えます。世界王者となってからは判定勝利の多かった鬼塚ですが、世界挑戦前はそのほとんどをKOで勝利しており、前の試合では1RKOで勝利を飾っています。その鬼塚のパンチを受け続けるも、中島はあきらめずに反撃を続けたのです。正直、漫画でこんな試合展開を描いたら嘘臭い、というほどの試合内容でした。結局10R終了で大差の判定となり鬼塚の勝利となるのですが、私は「すごい物を見た」という気持ちで呆然とTVを見ていました。
 この3戦を最後に中島選手はボクシングを引退しました。いずれも打たれての敗戦でしたが、完全燃焼と言っていいと思います。現在は茨城・水戸でジムを経営している中島選手。パンチドランカーになっていないかだけが心配です。
 そして、93年に始まるK-1がまだ無かったこの頃、フジテレビではキックボクシングの放送が深夜に行われるようになりました。確か最初の放送のメインは、現在総合格闘技界の中心にいる慧舟会(当時はまだ空手の道場でした)の西良典と、ヨーロッパ中量級の帝王ロブ・カーマンの試合でした。
 北斗の覇王・西良典が87年に長崎に慧舟会という空手の道場を開いたことは、当時フルコンタクト空手をやっていた私にとっては印象的な出来事でした。空手の道場ながら、当初から短刀による組み手など、多分に総合をイメージした練習を行っていた事を覚えています。
■全日本キック(90年9月28日・後楽園ホール)
 ●西良典(慧舟会)
 ○ロブ・カーマン(オランダ)
  1R KO
 その西選手が35才にして、バリバリの帝王カーマンに挑むもKO負けを喫しました。正直すでに西選手の動きはやや峠を越えた印象がありましたが、帝王を相手になかなかがんばったことは確かでした。試合後にプロレスラーの盟友・藤原組長と西選手が抱き合って泣いて悔しがったという記憶があります。
 この西選手、その後リングスに参戦し、修斗のVTJでは日本人で始めてヒクソン・グレイシーと対戦するなど総合格闘技を考える上では外せない人物です。現在では表に現れることはほとんどありませんが、当時は30代後半ながら現役選手として打撃もグラップリングもできる総合格闘技の草分けでした。
 当時は今ほど試合の機会は多くありませんでしたから、平直之や本間聡など総合系の格闘家はいろんな競技、大会に出ていたという記憶があります。90年頃というのは、純粋な総合格闘技はまだ日本にはほぼ存在しない時代でした。
 この日の放送での他の試合は、ムエタイ7冠王のチョモンペット・トーユンヨンにキックの世界王者の清水隆広が挑む試合や、8年間無敗の伝説のキックボクサーだったモーリス・スミス、後にK-1で活躍するチャンプア・ゲッソンリット、日本のホープだった立嶋篤史など見所満載のメンバーでした。当時から空手雑誌でキックボクシングの記事を読んでいた私はTVでキックが見れるいい時代が来たものだと喜んだものです。
 この試合の放送は、フジテレビの清原プロデューサー(現・PRIDEプロデューサー)が格闘技に理解があり放送に尽力したという背景から実現したものです。このあと93年にはじまるK-1の放送のプロトタイプとも言える放送で、私は立ち技格闘技の一つのターニングポイントであったと言えると思っています。
そして、
□91年 UWFの解散、3派(リングス、Uインター、藤原組)への分裂
□93年 パンクラス、K-1、UFCがそれぞれ旗揚げ
□94年 シューティングがヴァリトゥード・ジャパンを開始
などといった流れがあり、アメリカや日本でほぼ単発の総合イベントが次々を開催されるといった状況が生まれます。そして、その中心はグレイシー一族でした。
■道場破り(94年12月7日・アメリカ/ヒクソン・グレイシー柔術アカデミー)
 ●安生洋二(プロレス/UWFインター)
 ○ヒクソン・グレイシー(グレイシー柔術)
  6分45秒 KO(チョークスリーパーにより失神)
 そして94年12月に安生がヒクソンに道場破りを敢行するという事件が起きます。アポイント無しで記者を引き連れて道場破りを敢行した安生選手。Uインターでは道場を仕切り、ポリスマンとして実力には定評のあった選手でありながら、どこかユーモラスな雰囲気を持っており、個人的には好きな選手でした。実際、安生なら勝てるかも知れない、と当時の私は少し思ったりしたのですが、結局酒を飲んでから道場に行った安生はヒクソンに意図的にボコボコにされて何もできないまま失神させられました。
 ただ、プロレスラーとして総合格闘技を行った初めての日本人ということもあり、その後も総合格闘技で白星は挙げられませんでしたが、私のなかではある意味特別な選手の一人ではあります。実際この人がいなかったらUインター出身の選手の総合での活躍は無かったでしょう。
 そして97年10月にPRIDE.1が開催され、高田延彦がヒクソン・グレイシーに何もできずに敗退するという大きなターニングポイントのイベントが行われました。日本中の格闘技ファンが失望したこのイベントの2ヶ月後、日本の総合格闘技界に一つの光明が現れます。
■UFC Japan "Ultimate Japan 1"(97年12月21日・横浜アリーナ)
 ○桜庭和志(プロレス)
 ●マーカス”コナン”シウヴェイラ(ブラジリアン柔術)
  1R 3分45秒 ギブアップ(腕ひしぎ逆十字固め)
 TV東京の深夜枠という、マイナーな時間ながらTVで放送されたUFCの日本大会。ヘビー級トーナメントが行われ、プロレスラーで数少ない総合のできる安生洋二、UFCで活躍していたタンク・アボット、柔術黒帯のマーカス”コナン”シウヴェイラ、そして急遽参戦の桜庭和志というメンバーでした。
 正直、桜庭選手は総合初参戦で、コアなファンからは、若いのに渋いいぶし銀の選手という評価でしたが、Uインターでも目立った活躍をしていたわけではありませんでした。しかも、予定していた選手に出場を断られ、急遽Uインターから選手を出すこととなり、4日前に金原選手にオファーが行くも断られたところから、若手の桜庭選手に出番が回ってきたといいういわば間に合わせの出場でした。
 この桜庭選手、マーカス・コナンと1回戦で対戦し、打撃を受けながら低空タックルに入ったところをレフェリーにストップされ、セコンドの金原の指示で30分オクタゴンに居座るという抗議の末に決勝でコナンと再戦という流れとなる波乱がありました。
 再戦の決勝では、コナンが桜庭のバックをいきなり奪う場面からのスタートとなりました。当時としてはいきなり絶対絶命の状態であるポジションからコナンの腕を取り、回転しながら腕十字に移行して一本勝ちをおさめるという快挙を成し遂げました。
 当時は柔術を学ばなければ総合で勝つことは難しいと思われており、総合格闘技系の団体ではこぞって柔術のテクニックを研究していた時代でした。そんな中で、トップのプロレスラーではない桜庭選手が柔術黒帯から一本勝ちをおさめて「プロレスラーは本当は強いんです」という台詞を吐いたのです。高田選手がヒクソンに敗れて沈んでいたファンに対する、まさしく救世主が現れたのです。
 以降は現在の総合格闘技につながる流れですので割愛しますが、一貫して言えるのは、結果が明確に出る競技が好きであるということと、アドバンテージのある競技や選手に対しての思いいれが強いと言うことです。総合格闘技というまだ若い競技を、その創生期から見ることができたのはある意味幸せなことだと思っていますので、私の好きな競技の片隅に少しでも貢献できたら、と思っています。
[Track Back URL] [Column No.61]